アクセス至上主義とは何だったのか

2001年12月17日 月曜日

アクセス至上主義と称されるものが何故批判を受けるのか。
 基本的には、そりゃアクセス数は多い方がいい。特殊な場合をのぞいては、多くの人はそう考えているのではないだろうか。
 僕もその例外ではなく、単純に増えたら嬉しいし、減ったら寂しい。
 しかし、問題はアクセス数を増やす事自体を目的としてしまう場合だ。

 これは何も今に始まった病気ではないが、近年のテキスト人口爆発に伴って増えてきた奇病の一種である。
 患者の特徴は、アクセス数をただ単純に「数字」として捉えている所にある。
 アクセス数というのは、数字であって数字でない。その一つ一つは、インターネットを通して、端末の向こう側にいる一人一人の人間がサイトにアクセスし、文章を読んでいる事を意味している。
 結局、そこの所に頭が回る程度の想像力を持っているかどうかが問われているのだ。

 歪んだ自己顕示欲にもとづく動機から、オッペケ大手サイトに「掘り出し物」リンクされちゃった初心者サイトの中には、自分を見失ってしまう人もいる。そりゃぁ突然アクセス数が100倍になっていたりしたら、頭が茹だってしまっても仕方ないが。
 ただ、それで増長して「テキストサイトは、アクセス数を増やすゲーム」などとのたまうのは、相当に失礼な事であるのは自覚しておいて欲しい。
 誰に対して失礼か?言うまでもなく、自分のサイトを見てくれている読者に対して、である。
「アクセス数ばかり気にしやがって」と叩かれているのではない。作品を数値化しないと判断できない鈍さと、人間をただの数字としてしか見ない傲慢さとが、人を不愉快にさせるのだ。
 そんな低脳サイトを喜んで見ている人達も、よく考えた方がいい。お前ら、ナメられてんだぞ?

 このサイトも、最近随分と「アクセス数」が増えたけど、僕は常に意識的でありたい。
 端末の向こう側で、毎日能動的に99式にアクセスしてくれる人の事を。たまたま通りがかった人の事を。メールを送ってくれる人の事を。掲示板に書きこん でくれる人の事を。僕は、読者の一人一人に向かって、届く言葉で、あなたに何かを伝えようとして毎日文章を書いている。
 僕は、数字が欲しいのではなく、読者が欲しいんだ。
 偽善と言われようと構わない。しかられたって、かまわない。日記を書いていくとー(決めたー)なのにー(アクセス増が)急じゃ)ー怖いー

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