魔法

2002年1月6日 日曜日

 最近、『指輪物語』が売れているようである。
指輪物語といえば、今更説明は不要だろう。1966年にJ・R・R・トールキンによって著された、ファンタジー文学の金字塔とも言うべき作品である。
 これは恐らく、ハリーポッターがヒットした時に、指輪物語を引き合いに出して比較論評する識者が多かったせいだろう。
 しかし、「ファンタジー」だからと言って、この作品に『ドラクエ』のような剣と魔法のファミコンファンタジー的なトンデモ世界を連想するのは間違いだし、ハリーポッターのような魔法のお話でもない。

 元々、ファンタジー…幻想という言葉の指していた範囲はもっと広かったはずであり、それはおそらくおとぎ話、フェアリーテイルの延長線上にあったものである。作者の想像力の翼を広げる自由な世界、現実とは遥かにかけ離れたトンデモ空想世界の話の総称が「ファンタジー」だったのだ。
 しかし、逆に現在(特に日本)では、「ファンタジー」というのは逆にある種の形式的な、窮屈なイメージを抱かせる言葉になってしまっている。
 その遠因は、指輪物語にある。
 指輪物語の成功は、類似作品を急増させ、「ファンタジー」の分野の中に「指輪ファンタジー」とも言うべきジャンル内ジャンルを作り出す。
それは、「文明レベル中、亜人、魔法、魔王、冒険」の約束事にまみれた世界である。
 形式にとらわれないはずの幻想が、逆に形式のオリとして機能し始めたのだ。
 そしてアメリカではD&Dが生まれ、ウィザードリィが生まれ…。
 指輪物語から、丁度20年後、日本でドラゴンクエストが発売される事となった。

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 以降、日本での「ファンタジー」と言えば、それはガチガチの形式的世界「剣と魔法と勇者さん」の記号的な組み合わせを意味する言葉でしかなくなった。

 ともすれば、「指輪物語に比べて、話に深みが無い」とか「あの名作とは比べられない」といった否定的評価で語られることも多い「ハリーポッター」。
 しかし僕は逆に「ハリーポッター」は懐古趣味的な"古き良き魔法"を、現代を舞台として甦らせたと言う事で、「トールキンの呪縛から『ファンタジー』を解き放った」という見方をしている。

 今の子供達は、勇者が剣を持ってゴブリンやスライムと戦うよりも、少年がホウキにまたがって空を飛ぶほうがずっと素直にワクワクできるのだ。

 しかし、実は2002年には『指輪』の映画も世界公開されるのだった。おそらく『ハリー』も『指輪』もシリーズ化されるだろう。
 新旧魔法対決はどちらに軍配があがるのか? なんてね。


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