檄
Hey!みんな元気かい?
思えば、今年になってから夕方より前に外に出た事なんてほとんどなかった気がする。しかしはるばる尾張名古屋から出てきた無題マサムネ氏にせっかくお招き頂いたので、忍んで行ってきました。太陽がこんなにまぶしかったのかと驚きました。
マサムネさんは、アルタ前でカスタネットを打ち鳴らして「この、アクセス乞食が!」と歌っていたので遠くからでもすぐに判りました。楽しかったです。しかし、パスタ屋さんで「ネゲット!ネゲット!(マサムネ)」「中出し!中出し!(雪男)」とか大声で騒ぐのはちょっと恥ずかしかったです。異界隈コミュニケーションの難しさを感じました。
集合場所の周囲や移動中に、ウォッチャーが尾行していないかどうか、時には集団から離れつつ鋭く監視したのですが、どうやら尾行者はいなかったようです。
あ、そうそう。みんな気になっているマサムネさんの外見的特徴を暴露します!
なんと!
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マサムネさんは
眼鏡をかけていましたー。
(マサムネさんが主賓のはずなのに「今日はゲストなんだからもっと輪の中に入って交流しましょうよ!」との温かい心配り、かたじけのうござる。どっちがもてなされに行ったんだか!お世話になりました。)
つづき
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「王様は裸だ」と言いたかったのだろうか。それは言わないのがお約束であっても、いつか誰かが言ったことだろう。いや、いつも誰かが言っていたことだろう。だが僕のその行為は、自らもまたサイト言及を繰り返す彼の立場からすれば抜け駆けあるいは背信行為であったのかもしれない。人々の努力を高みから笑う卑怯者に見えたかもしれない。
だが一つ童話と違うのは、僕も裸であったという事だ。WEB言及批判は同時に自己言及批判の自虐であり、矛盾を内包した自嘲的態度でもある。(そしてWEB言及批判批判は自己言及批判を批判する破壊的言語ゲームなのだ。)
僕が自分のWEB言及批判が単なる自嘲自虐でないと主張する根拠は、それが僕にとってのある種の真実、つまり本気であったと言うことに他ならない。
考えても見て欲しい。キリスト教だって2000年前は存在しなかったのだ。ただイエスという一人の男が天国の存在を信じ、神の到来を説き、多くの人間がその共同幻想に見を投じることによって、ついには「キリスト教世界」を確立してしまったのだ。
だが当然僕はイエスの如き超越者ではなく、ただその到来を待ち続けるだけの使徒に過ぎない。それでも僕は確信している。いつの日にか救いの御子は僕らの眼前にその光り輝く姿を見せ、僕らの魂は永遠に救済されるだろう!
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では君に1つ問う。君は何の為に文章を書くのか。伝達手段としての機能を失えば、言葉はその時点で言葉ではない。ヒエログリフは、現代人にとっては単なる記号の羅列でしかない。伝える事柄を消失したら、いやそもそも始めから存在しないとしたら、果たして僕らにテキストサイトを運営する事は可能なのだろうか?
伝えたい事の存在を否定する態度がナフ周辺のナフ周辺たる由縁であると仮定するならば、やはり僕もナフ周辺ではないのだろう。しかしそれは果たして自嘲だろうか。本当は伝える事など存在してはイケナイはずのに、伝えずにおれない己の愚かさを嘲藁うシニシズム?
否、それは違う。それは批判者の声を相対化して逃げ続けるための防衛線ではなく、僕達の照れ隠し。(正確を期すならば、これは僕がかつて選んだ方法論。このサイトの名前は「ナフ周辺サイト」ではないので、ナフ周辺の画策するところを理解することは不可能。かつ周辺サイトは中枢に同化して存在しているのではなく、あくまで外縁に沿って円形に配置されているだけの放射状拡散的存在である。)
では、その自嘲するサイトとは?