読書行為論
(5/19)の続きです。
前回まで色々な読者像を考えて来ましたが、ヴォルフガング・イーザーは「内包された読者」という概念を提案しています。彼は『行為としての読書』の中で、テキストを劇場に例えて説明しています。
客が、舞台劇を「正しく」鑑賞するためには、「観客席」という指定されたポジションに座る必要があります。
もしも舞台裏をのぞいちゃったら、ハリボテの裏側や散らかった楽屋、鼻糞をほじっている俳優が見え、はては共演者や観客への悪口が聞こえてしまって萎えるかもしれません。(その作者あるいはテキストとの距離の差によって興奮の度合いも変わってきます。これはコンサートの最前列と2階席を考えればわかることでしょう。)
演出家は常に「客席から」の視点でどう見えるかのみに注意を払って、ステージを構築していきます。
それと同じように、テキストというのは、つねに読者の「観客席」を構造の中に組み込んでいるのです。テキスト論の文脈の中では、しばしば「読者を意識した文章」という表現が使われますが、これがイーザーの言う「内包された読者」の概念と思われます。これはある特定の読者像を想定するものではなくて、「読者」「閲覧者」「客」「アクセス数」「ウォッチャー」等と形容される、我々が漠然と「読者」として捉えている観客のイメージであり、あらゆる場合に適応可能な読者集団です。
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「オフで一度会ってしまうと、今までのようにその人のサイトを読めなくなった」、あるいは「最近じゃ、知らない人のサイトは読まない。」という意見があります。この読書行為論によれば、彼らは「舞台裏を見てしまった」のです。一度舞台裏を見てしまうと、後は興ざめして読めなくなるか、楽屋ネタとして楽しむかの二者択一を迫られることとなります。楽しいオフ会の代償は、観客としての権利の放棄。つまり自ら指定席を立つことに他なりません。
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(ここから本題)
例のミュージカル「モーニング・タウン」のチケットが余っている方はいらっしゃいませんか。僕も「観客席」に座りたい。価格応相談。ご連絡ください。