反復更新

2002年7月13日 土曜日

 繰り返し繰り返し行ってきた動作は、やがて意識せずともできるようになる。これが習練というもので、およそあらゆる武道が、最初は基本動作の反復練習を行なわせるのもそのためである。
 我々が歩く時にいちいち「次は右足を…」と考えなくても歩けるのも、話す時にいちいち日本語の文法法則を考えずに話せるのも、物心のつく前からずっと反復して行ってきた行動だからだ。

 この「反復による動作の反射化」は、しかしながら良い面ばかりではない。
 先日入ったとある書店で、見習いのバイトが先輩格に挨拶の仕方を指導されていた。
「ウーン、キミの場合はさ、『いらっしゃいませぇ~』なんだよね。」
「いらっしゃいませー。…そうかしら?」
「もっとこう、歯切れ良くスラっと『イラッシャイマセ!』…と。これで良いんだよ。」
「でも、でもそれじゃ、愛がこもりませんわ。」
「あ、愛だって?」
「愛、というか…。感謝の気持ちです。いらっしゃいませ、ありがとうございました。」
「ウ~~ム。」

 なるほど確かに先輩格の「挨拶」は淀みがなく歯切れが良く、経験をつんだもののそれであった。しかし、そこに「客が入ってきた→イラッシャイマセ」
「客が出ていく→アリガトウゴザイマシタ」という反射的動作、機械的な響きがあるのも確かである。自動的に「発声」するだけなら、まさに機械にでもできる。
 対して見習いの「挨拶」には、いささか間延びしているものの、人の話す言葉としての温かみが感じられた。しかし、それも仕事を長く続けて行く内に失われていくものなのかも知れない。
 僕自身も、店で客と会話している時は普通に話しているのに、「ありがとうございました」と言う時だけ自分の声が妙に機械的な発声になっているのを感じていた。

 この「反復による動作の反射化」の弊害が最も深刻に現れるのは、食品や医療等、人間の生命に関わる分野においてである。
 特に医療の現場で、患者の取り違えや執刀ミス、点滴に消毒液…等の驚くべき事件がたびたび起こるのも、日頃の業務が数限りない反復によって完全にルーティンワークと化しているからであろう。また、その事故が直接
患者の生死に関わって来るから問題になるのだ。

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 況んやサイトの更新においても、「動作の反射化」は死活問題である。更新頻度をあげることによって「日課」としてしまえば、確かに更新は楽になる。しかしそこに「慣れ」や「油断」が生じる。かつて、あるドラマーは「僕は一打ごとに自分の魂を込めたい」と言った。一曲の中に含まれるショットの数は、ハイハットも含めれば2000は下らないだろう。(魂、燃え尽きちゃうよ!)
 そこまでの境地を目指さずとも、毎日書いている日記の中に、どれだけ「愛」(気持ち、感謝、情念、萌え、馴れ合い、喜怒哀楽その他もろもろの感情)を込められるか、機械的・義務的更新にならずにいられるか。これが我々日記書きが直面する試練である。

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あるドラマー…石黒彩のダンナ。

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テキストサイト大全は、多分増刷がかかるほど売れないと思うので、見かけたら即買いした方が良いでしょう。無かったら通販か、書店注文で!


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