和イスキー膳
二日酔の…無念きわまる僕のため…もっと電車よ、真面目に走れーー!!
どうも、リアップ宮本です。今日はザビエルの話を書きます。フランシスコ=ザビエルについての説明は不要でしょう。そう、歴史の教科書に出てくるあの河童ハゲです。
これから書くエピソードは、坂口安吾の評論文『ヨーロッパ的性格、日本的性格』にて書かれていたものなんですが、面白いのでちょっとパ…いえ、紹介してみます。
ザビエルはある日、禅宗の寺に行きます。するとそこである坊主に話しかけられます。
「あなた、どこかで私と会った事がありますよね?私の事を覚えてますか?」
実際全く覚えがないので、ザビエルはびっくりします。
「いえ、ちっとも知りません。あなたは誰ですか!?」
すると坊主は笑いながら、
「おいみんな、この人は俺に会ったことがないとか言ってるが、とんだ大嘘つきだよ!」
集まってきた仲間の禅坊主もニヤニヤ(・∀・)ニヤニヤしています。
「チョト待ってくだサーイ!私ウソつかないネ。あなたこそうそつきデース!」
憤慨したザビエルに向かって、坊主はしたり顔でこう言います。
「そんな事言ってしらばっくれてるけど、今から1500年前に比叡山で私に金を五百貫見付けてくれたのがあなたじゃないですか。やだなぁ、本当に忘れちゃったんですか?」
これは要するに禅問答なんですけど、ザビエルは当然そんな事は知らない。そこでこの坊主は大変なウソツキである、とこう思ったわけです。で、
「アナタは一体、何歳になるのデスか?」と訊きます。
坊主は「私は52歳ですが何か?」と答えました。
するとザビエル、
「52歳の人間が、今から1500年前に比叡山で金を貸すなんて、おかしいじゃないデスか。全くありえない。どうしてアナタはそんなウソをつきますか。」
とマジレスしたのです。これには坊主も参ってしまいました。ポカーン。
つまり、禅には禅の世界だけの約束事があって、そのお約束の上に立って論理を築くのが禅問答らしいです。だとすると、お約束世界を共有する相手同士でやって初めて、成立する世界なのです。
例えば、
「仏とはなんぞや?」
――「無である。」「糞掻き棒である。」
「神は死んだ!なぜだッ?」
――「坊やだからさ。」
とか言った具合で、お互いに分かったような顔をしていても顔だけです。実際は分かっているかどうかも分からないのです。
同じく、実はテキスレ(あるいはテキストサイト村)にも、住人達だけのお約束があって、その上で論理を弄するものなのかもしれません。
「ナフ周辺とはなんぞや?」
――「無である。」「麻雀仲間である。」
「トツカとはなんぞや?」
――「自演である。」
とか、こういう世界ですから、やはり禅問答のようなものです。こういう世界の住人にとって一番まずい相手は、ザビエルのように、お約束の通じない異人であり初心者であります。
世界観を共有していない「オール50」なる人物の漂着によって、一晩で200も300もレスがつく混沌としたテキスレの状態は、まさに使徒襲来。
「放置しよう」と提案したとしても、”放置できない人”と、”放置できない人の事を放置できない人”とが必ずいるからどうしようもない。
僕らは迷い子。どうすりゃいいのか。小首をかしげて禅問答。
ならば問う!テキスト村とはなんぞや?テキスレとはなんぞや?
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