日本式クリスマス全肯定論

2003年12月25日 木曜日

 未だにネットでは、クリスマスを否定して自虐るのがデフォルトになっているようなので、僕は今年はクリスマスを肯定してみようと思う。頑張るぞー。

 そもそも、「クリスチャンでもないのにクリスマスを祝うのはおかしい」、あるいは「クリスマスは西欧では家族と団欒する日、恋人同士がSEXをする日になっているのはおかしい」という批判はおかしい。 これらの批判は、近代日本という磁場の持つ特殊性を無視して、強引に一般化した視点からの批判である。そうでなければ西洋かぶれのグローバル主義的主張だ。

 まず、宗教的祝祭と信仰とは必ずしも合致する必要はない、という前提を今一度はっきりさせておこう。しかしながら、クリスマスや正月における日本人の行動は、その特異な宗教的寛容性という切り口から方々で語りつくされているので、ここでは詳述しない。
 これは一般論だが、外来宗教というものは、常にその土着の風俗や信仰と融合して敷衍されていくものである。七福神にはインドの神が混ざっているし、江戸時代の伴天連信徒はマリア観音を拝んでいた。

 そして第二に、戦後日本に導入された西洋の祝祭は、若者の性行動と関連していなければ根付かなかったのである。

 戦前のムラ社会では、若者が自由奔放に性を楽しむ場が用意されていた。年に一度、あるいは数回行われたはずの“祭り”がそれである。恐らくは農閑期に村祭りという形で行われたはずだ。しかし戦後の高度成長時代には、都市化が進んで農村共同体が崩壊すると同時に、当然そうした場も瓦解した。
 そこで替わりにクリスマスが、そうした場として機能することになった。元来 日本人は、何をするにもエクスキューズを必要とする民族なのである。ムラ祭りという場が提供されていなければ、どこでムラムラしていいのか解らなくなっていたところに、やって来たのが恋人とサンタクロースと山下達郎であった。これは実に画期的で合理的な選択と言っていい。日本人は、村祭りの代わりにクリスマスを手に入れ、山の神の代わりに商業主義を祭神にいただいたのである。

 西洋でも、例えば人一倍 色事が好きなはずのイタリア人やフランス人が、どうしてクリスマスにそうした機能を求めなかったかと言うと、彼らはそんな日を設けなくとも一年中休みなく口説いているからである。日本人は、何か特別なイベントにかこつけないと、なかなか異性と近づけないのだ。
 バレンタインデーについても全く同じ図式が当てはまる。

 対照的に、欧米ではクリスマスと並んでメジャーなお祭りであるハロウィンやイースターは、日本では全く定着していない。これはやはり恋愛、性愛と結びつくことに失敗したからであると思われる。

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