僕らはWeb日記に「つながり」を求めていたのだろうか?

2011年5月19日 木曜日

先日書いた文章『さるさる日記』が滅ぶべくして滅んだ本当の理由 に、『琥珀色の戯言』から言及をいただきました。

「リアルが充実していないと、ネット上でも充実した生活が送れない」

10年かけて行き着いた「答え」がこれだというのは、妥当でもあり、また、ネットは楽園だと信じていた僕にとっては、あまりに哀しすぎる結末でもあります。

それを打開するような「新たなネットサービス」を考えてみたのだけれど、「いまの一般的なブログサービスに機能的に足りないもの」というのは、なかなか思いつかないのです。 『さるさる日記』終了と「閉じてゆくネットコミュニケーション」 – 琥珀色の戯言

これを読んで僕が感じたのは、「あれ、僕らはWeb日記に何を求めていたんだっけ?」という疑問。

この『琥珀色の戯言』では、さるさる日記について、このように回顧されています。

僕が『さるさる日記』を使っていた頃は、ネットで何かを書くためには、HTMLを理解しているか、『ホームページ・ビルダー』を使わなければならず、それはかなり高いハードルだったのです。
『さるさる日記』は、登録してしまえば、ワープロと同じように、文章を書いてアップするだけ、というシンプルなシステムで、非常にわかりやすく、アクセスランキングなどもあって、当時としてはかなり画期的なツールだったんですよね。あの頃は「ようやく簡単に使えそうな表現ツールが出てきた」という感じで、「シンプル」だという意識はありませんでした。

実際には僕は本当の意味でさるさる日記ユーザーだった時期はないんですが、画期的だったはずです。それは僕も

1999年、『さるさる日記』がWebサービスとして産声を上げたとき、当時は、かなり先進的なサービスだったはずだ。 サーバーの専門技術もHTMLの知識も不要で、無料で誰でもインターネット日記が書ける。すばらしい!ハッピーバースデー!
このとき、『さるさる日記』はイノベーターであり、その価値は最新の技術を誰でも利用できる形で提供したところにある。 『さるさる日記』が滅ぶべくして滅んだ本当の理由 | 九十九式

とふれているとおり。
そう、こうしたWeb日記サービスは、個人がネットで文章を通じて自己表現するという機会を増やし、その敷居を著しく引き下げることに成功した。

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しかし、『琥珀色の戯れ言』は、ここで突然話が変わります。

でも、ウェブ日記が自己表現の手段となっていくにつれて、「デザインが変えられる」というのは、そんなに大きなメリットではなくなってきたのです。
どんなにデザインに凝っても、デザインだけでは、誰にも読んでもらえない。
そんな現実に、多くの人が打ちのめされました。

「誰かに読んでもらうためには、どうすればいいのか?」
そこで、登場したのが「ブログ」でした。

まずデザインについては、「きれいなデザインにする」「色とりどりのテーマから選択できる」というのは必ずしも本質的な話ではなくて、文章表現ツールとしてさるさる日記が致命的に劣っているのは、テキストがブラウザデフォルトで読みづらい、という点だと思います。これはデザインが凝ったものにできない、ということではなく、具体的に言うと横幅(width)と行間(line-height)が固定であるという点。
そういう意味では、エンピツはちゃんと“読みやすさ”のデザインに気を遣うことができる。(例:活字中毒R。)この辺が生き残りの明暗を分けたんだと思います。

しかしさらにこの記事は、デザインからコミュニケーションの話にシフトしていきます。

それまでの「ウェブ日記サービス」では、他者とのつながりは、掲示板での交流あるいは「文中リンク」(自分の日記のなかで、相手の文章にリンクを張って言及すること)によって保たれていました。
いまから考えてみると、掲示板にコメントを書くというのは(とくに人気サイトでは)「常連」以外には敷居が高いし、「文中リンク」に威力があるのは、「大手サイト」だけでした。
それが、「ブログ」になると、デフォルトで「コメント欄」とか「トラックバック機能」がついており、他者との交流は、はるかに簡便になったのです。

つながりやすさという点では、確かにさるさる日記とブログでは明らかに差が付くでしょう。それなら閉じていって当然です。
でも……あれ?
「誰かに読んでもらうこと」と「つながること」って、イコールでしょうか?
だって、最初は「ネットで何かを書く」、「表現ツール」の話でしたよね。

僕がこの九十九式を開設した当初から求めていたのも、まずは自分が表現するということ、次に、それを誰かに「認めてもらうこと」、さらには日記の更新を通じて、自己実現していくこと、という風になったけど、基本的には文章を書くという行為が中心にあって、コミュニケーション自体を目的ににしたことはなかったと思います。心許せる日記仲間との交流は確かに楽しかったけど、交流のための日記では本末転倒。

冒頭のfujipon先生の問いに僕なりに答えを探すならば、今も昔も、ツールに求められているのは、“簡便に読みやすい文章が公開できること”であって、機能はそれを実現させるためのおまけでしかないと思います。
さらには、それは著者がツールに求めていることであって、著者に求められているのは日記(エントリー)の中身自体であることは言うまでもありません。おもしろい日記、記事、エントリーを書くために、リアルが充実している必要はまったくないと思います。例えばおもしろいアニメレビューのブログだって探せばいくらでもあるんじゃないでしょうか。
あとは、かつてのテキストサイト的な文脈で言うと、リアルが充実してなくて、普段おとなしいやつが、とんでもなくぶっ飛んでて面白い日記を書いたりとか、そういうパターンもある気がします。

余談ですが。『琥珀色の戯れ言』は、マクラで始めた話が、段々スライドしていって、最後は違う話になってたりすることもあるんですけど、「自分の言いたいことを各」という個人サイトの日記の姿勢としては結構正しいんじゃないか、と思います。

というのはつまり結局、多くの人が読みたいのはその日記書きのキャラクターであって、論文を読みに来ているわけではない。個人のブログにとって論理的な整合性よりも大事なのは、日記人格の一貫性なんじゃないか、ということです。


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コメント / トラックバック 2 件

  1. fujipon Says:

    最後の「余談ですが」以下には、そんなふうに読まれているのか……と思いました。

  2. ekken Says:

    宮本さんの日記の誤字の多さを見ると安心する自分がいる。

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