2002年 5月6日(月)   受容理論

 文学理論は、第一段階では作者、第二段階では作品、第三段階では読者中心の研究へと移行してきました。僕らのサイト論においても、議論は同じように第三段階へと推移しつつあります。この「読者」の問題は、テキストサイト論の現場では「森下・松田対談」においてクローズアップされた問題です。

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 テキストサイトがサイトとして存在するのに不可欠な存在といえば、まず作者、そしてテキストです。しかし、同じくらい重要なのが「読者」です。
 もちろんまず作者がいないと最初から存在しない訳ですが、一人も読む人間がいないのではやっぱり成立しない。丁度、おすしのようなものです。刺身とごはんと両方ないとおすしにならない。ニュークリティシズムのノースロップ・フライという批評家が「作者は言葉を、読者は意味を持ち寄る」というような事を言っています。作品は、作者と読者の共同作業ということですね。
 そうなると、ではどんな読者が存在するのかという議論になります。厨学生だって読者だし、友達だって編集者だってアメンボだって、みんな読者です。さらに言えば批評家だって読者だし、作者が自分で過去ログ読む時はやっぱり読者です。
 そこでまず考えられたのが「理想の読者」です。これは文学理論の場で昔から言われている事で、理想的読者なら作者の意図を全て正確に理解する事ができるはずだという考え方。そしてその代表が批評家だとされてきました。これは一種の権威主義で、解りにくいサイトがあると、人は意味を求めたがる。あるいは、自分で面白いサイトを選別するのは面倒だから、誰かにオススメサイトを教えて欲しがる。そこで批評家の言説が参考される事になります。ヘイブルドッグやWEなど、「サイト批評サイト」が注目を集める由縁です。
 でも、そもそもテキストの意味なんてそうやってサイトから分離させて単体の解釈ができるようなものじゃないし、同じテキストでも2回読んだら違う解釈に気付いたりもします。そもそも意味なんて無かったのかもしれません。
 つまり批評家だって理想の読者にはなれない。それと同じように、作者でさえ理想の読者にはなれません。日常や妄想やネタや衝動など、解説できないような何かをテキストにして発表するわけだから、「僕があのナンセンスなネタ日記を書いた意図は…」なんて説明しだしたら、それは批評家の立場と変わりません。

5月19日(日)   チャイムが鳴るまで

 さて、「理想の読者像」なんてものを考えて来ましたが、それに対して誤読者という存在が論じられて来ました。これは、作者の意図と明らかに対立する読み方をしてしまう読者の事。念の為に言っておくと、作者の意図と読者の読みと、どちらが正しいとは一概に言えない、というのが前回の結論。
 しかし、それを頭で解ってはいても、あまりに非道い誤読を前にすると作者はさすがにゲンナリしてしまう。
 例えば、99式を例に取りますと、13日付け「頑張れ中国」。これに対して誤読者から誤読メールが届きました。
 メールは晒しませんが、いきなり「この非国民め!」と宮本が罵られております。中共シンパや北朝鮮工作員の破壊メールかな?とすら思った。それで最初は何言ってるのか全然解らなかったんだけど、どうやら「反日国家を応援するなど、日本人の皮を被った非国民だ!」と真っ向から糾弾している様子。裏の意味とかネタとか無さそうです。なんと日本近海に北朝鮮の不審船が来ていた事や、ちょっと前にミサイルが日本上空を通過した事を教えてくださいました。僕に対して。「平和ボケしたアホ」とかも言われてしまった。笑える。この、大東亜共栄圏の再建を夢見る国粋趣味的右翼ファシストの宮本勇次郎が、平和ボケ。萎える。
 これは誤読というか、正反対の読みでしょうか。反読者。最後の一行しか読まなかったのかなあ。(説明するまでもないと思うんですけど念の為に、あれは反日国家の活動が活発になる事によって、「平和ボケ」した平和な日本人の意識改革が促進される、と。つまり、反日工作激化によって有事法制の整備や憲法改正がしやすくなり、再軍備化や正当な国民教育もやりやすくなる、というシナリオを念頭に置いた、この上なく解りやすい右翼ネタだったわけですが。解説してて萎える。)

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 さて、続けます。理想の読者とは別に、同時代の読者というのが存在します。これは4月30日でも少し触れた事ですが、そのテキストが書かれた時にリアルタイムで読む場合と、過去ログとして後から読む場合とでは、解釈も意味も違ってきます。
 これをハンス・ロベルト・ヤウスは、「期待の地平」という言葉で説明しました。「期待の地平」とは、ある特定の時代の読者がテキストを判断するときの基準のことです。「期待の地平」は時代により変化するので、時代が変われば解釈も根本的に変わります。期待が維持される場合、その読みは旧パラダイムに属し、期待が破壊される場合には新パラダイムを作ることになります。
 (99式を例にとると、一番解りやすいのは例のフォント弄り週間「快楽亭ブラックのファニーヘーマーズゲブン」です。あれを今のパラダイムに属して読むのと、当時リアルタイムで読むのとでは全く違います。)
 他にも誤読者の存在とか、ウォッチャーや論敵や801読者など、色々な読者のモデルが想定できますが、その全てを把握するのなんてのは到底無理な話です。

2002年 6月6日(木)  読書行為論

 前回まで色々な読者像を考えて来ましたが、ヴォルフガング・イーザーは「内包された読者」という概念を提案しています。彼は『行為としての読書』の中で、テキストを劇場に例えて説明しています。

 客が、舞台劇を「正しく」鑑賞するためには、「観客席」という指定されたポジションに座る必要があります。
 もしも舞台裏をのぞいちゃったら、ハリボテの裏側や散らかった楽屋、鼻糞をほじっている俳優が見え、はては共演者や観客への悪口が聞こえてしまって萎えるかもしれません。(その作者あるいはテキストとの距離の差によって興奮の度合いも変わってきます。これはコンサートの最前列と2階席を考えればわかることでしょう。)
 演出家は常に「客席から」の視点でどう見えるかのみに注意を払って、ステージを構築していきます。

 それと同じように、テキストというのは、つねに読者の「観客席」を構造の中に組み込んでいるのです。テキスト論の文脈の中では、しばしば「読者を意識した文章」という表現が使われますが、これがイーザーの言う「内包された読者」の概念と思われます。これはある特定の読者像を想定するものではなくて、「読者」「閲覧者」「客」「アクセス数」「ウォッチャー」等と形容される、我々が漠然と「読者」として捉えている観客のイメージであり、あらゆる場合に適応可能な読者集団です。

 「オフで一度会ってしまうと、今までのようにその人のサイトを読めなくなった」、あるいは「最近じゃ、知らない人のサイトは読まない。」という意見があります。この読書行為論によれば、彼らは「舞台裏を見てしまった」のです。一度舞台裏を見てしまうと、後は興ざめして読めなくなるか、楽屋ネタとして楽しむかの二者択一を迫られることとなります。楽しいオフ会の代償は、観客としての権利の放棄。つまり自ら指定席を立つことに他なりません。


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(ここから本題)
例のミュージカル「モーニング・タウン」のチケットが余っている方はいらっしゃいませんか。僕も「観客席」に座りたい。価格応相談。ご連絡ください。
唯野教授に捧ぐ
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