チョコレートパイ ヤイヤイヤイ ヤイ ヤヤーイ

 ぼくは大きく白いため息をついた。
 労働自体から来る肉体的疲労と、先輩・上司の非論理的にして理不尽な叱責による精神的疲労をひきずって、すりへった体でやっと家の門をくぐったのは、もう深夜の2時だった。
 家族はみんな寝ているだろうな。そう思って扉を開けると、なんだか甘ったるい香りが鼻を付いた。どうも台所で誰かが何かごそごそやっているようだ。電気が点いている。
「ただいま…。」
 靴を脱いでコートを放り投げ、台所をのぞいてみると、エプロン姿の妹がいた。
 シャカシャカと懸命に何かをかき混ぜていて、ぼくに気づいていないようだった。部屋中にチョコレートの匂いが漂っている。
「何やってんの?」
「わぁっっ!」
ぼくが声をかけるとのぞみは驚いてビクっと体をふるわせた。そのはずみで、チョコレートがはねてほっぺたに着いた。
「なんだよーおどかすなよぅー」
「別に、普通に帰って来たぞ。」
 妹は、チョコレートを湯煎で溶かしている最中だった。
「それにしても、何でこんな時間にお菓子なんか作ってんだ。太るぞ。明日起きられなくなるぞ。」
 ぼくが眉をひそめてそういうと、のぞみは口をとがらせた。
「はぁ?おにいちゃん、何言ってんの。あしたバレンタインなんだよ?」
 ああ、そうか。そう言えばもうそんな季節だ。
「別に間に合わなかったらあさってでもいいんじゃん?」
「うるさいうるさい」
 ぼくは台所から追い出されてしまった。
 まあ、どうせ明日ぼくにくれるんだろうから、それまで楽しみに待っててやるか。

のの






ぴ〜〜〜〜ち!
桃色のかたおもい こいしてる
まじまじと みつめてる
ちらちらって 目があえば むねがきゅるるん





 階下の台所からは、妹の歌声が聞こえてきた。


==========
 朝、歯を磨いていると、机の上に置かれた黄緑色の箱が目に入った。
「これが昨日の夜に作ってたやつか?直接渡せよな。全く…」
 そう呟きながら手に取ってみると、包装紙がゴディバだった。手作りは結局うまくいかなくて諦めたのかな。箱をひっくり返すと、かさりと小さなカードが落ちた。
 メッセージカードか?ははは。こんなんいらないのに…。
 そのカードには、「サトウくんへ」と書かれていた。
 サトウ?僕はサトウ君? ちがう。僕は勇次郎くん。

 …なーんだ。
 そりゃそうだよな。この年になって、兄妹でチョコレートもあるまい。
 大体、ののの手作りチョコレートなんて食ったら腹こわしちまうかもしれないし、良かった良かった。
 お大事にね、サトウくん。

 しかしなんだろう。なんだ?この気分は。まるで、楽しみにしていたものが無くなった時のような…。ガッカリしているような…。
 ぼくが、がっかりしている?しょぼーん?
 そんな馬鹿な。それはありえない話だ。
 そうだ、きっと昨日ズブロッカを飲みすぎたせいだ。うん。
 無理矢理自分を納得させて、僕はとりあえず寝ることにした。一晩寝て起きたら何かが変わっているかもしれないという虚しい期待をもって。
 階段を上がる途中で、部屋から出てきた制服姿の妹とすれ違った。
「おはー。」
「ああ、おはよう。うまく渡せるといいな。」とぼくが返事をすると、のぞみは階段を降りかけた所でぴたりと足を止めた。
「…! おにーちゃん、まさか見たの?アレ。」
 いや、だって机の上にあったから…と僕は言いかけたのだが、妹は顔を赤くして「もー、しんじらんない!おにーちゃんのばか!かばー!」と叫んで階段を駆け下りて行ってしまった。

 お年頃なのだなぁ…。桃色片想い、か。
 去年のバレンタインはどうだったっけ。あのチョコレートは、どんな顔して渡すんだろう。相手はどんなやつなのかな。
 ぼくは布団の中でそんなとりとめの無い事を考えながら、やがて眠りに落ちた。

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 どこからかめざまし時計の音が聞こえる。体が思うように動かない…。僕の横にある木には、懐中時計がぐんにゃりと垂れ下がっている。記憶の固執だ…
 ハッと飛び起きてめざまし時計を止めると、バイト開始時間のわずか30分前だった。 ヤバい。ぼくは急いで髪の毛をセットし、その辺にあった服を着て、忍のように走った。 バイトにはなんとか間にあったが、なぜかその日はミスばかりしてこっぴどく叱られた。
 今日は厄日だ。星の巡りが悪いらしい。
 それでもどうにかこうにか仕事も終わり、ぼくはバイト中にもらったチョコレートをポケットにつめこんで店を出た。夜になるとさらに冷えこむ。コートの隙間から入ってくる2月の風から逃げるようにして、ぼくは家へと急いだ。

「ただいまーっ…と。」
「おかえりおにーちゃん。」
 マフラーをはずすぼくを迎えたのは、深夜には似つかわしくない元気な声だった。
「あれ?お前まだ起きてたの?昨日も夜更かししたんだから、早く寝ろって。」
「てへへへ…」
「何笑ってんだよ。」
「えっとねー。」
 コートを脱いだぼくは、ポケットが膨らんでいるのに気付いた。
「あ、そうそう。今日バイト中にチョコレートもらったから、お前にも分けてやるよ。」
 そう言ってぼくがチョコレートを取り出すと、のぞみの顔から表情が失せた。真夜中の停電のように、突然ふっと消えた。
「…どうした?」
「なんでも、ないっ!」
 妹は、ぷいっと振り向いてゴミ箱のところまでツカツカと歩いて行くと、ガンッ!と何かを投げこんで、家全体が揺れそうな勢いで階段を一足飛びに駆け上って行った。バタム! のぞみの部屋のドアが閉まる音が聞こえた。

「ヘンなやつ…」
 ゴミ箱に近寄ってそっと中を覗き込んで見ると、なんだかチェック模様の物体が見える。
 拾い上げて見ると、それはきれいにラッピングされた箱だった。

 包装を破らないように慎重に開けてみると、ぶかっこうなチョコレートが入っていた。
 それは中が空洞で四角く、ちょうど煙突のような形をしていた。
 これは…井戸だろうか。 深層心理の象徴か?
 同封されていたメッセージカードには、「はっぴ〜ばれんたいん おにーちゃんへ。 しっぱいしちゃったからあげる」と書いてあった。

 結局それが何の形をあしらったものなのか解らなかったが、ひとくちかじってみた。
 それは、とても甘くて、少し苦くて、フロイト的な味がした。
 まあ、疲れてる時には甘いものだよな。
 ぼくはそうつぶやくと、チョコを肴に、バレンタインをロックで飲んだ。

2002年 2月14日(木)
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