VSくまプー 時系列インデックス

九十九式・更新動機(4月22日)
くまプー・九十九式再読(4月26日)
九十九式・禊(4月27日)
九十九式・檄(4月29日)
九十九式・璞(4月30日)
くまプー・九十九式の 「くまプー解読」 を受けて(5月1日)
くまプー・過去を振り返る(6月17日)

VSクマのプーさん Mugcup Collection

 暴力と差別を肯定し、軍国主義の復活を唱える極右ファシストの宮本です。こんばんは。良識派とはまさに僕のことだ。聞け、めくらども。

 かつて、ジオン・ダイクンは「人類の革新は宇宙の民たる我々から始まる」と言った。そして、僕はかつて「このサイトに対してどのような反応を示すか、それは自由だ。」と宣言した。それは、「僕が自由だから君も自由で良いよ」という交換条件としての宣言ではない。

 僕は「ミラーサイト」を作っている。いわゆるミラーサイト、そっくり同じデータを置いてあるサイトとしての意味ではなく、九十九式はカガミのようなサイトでありたい、という意味だ。
 僕らが鏡を見る時、それは自分の姿を確認したい時だろう。鏡を見る事によって初めて、自分を擬似的他者として客観的に知覚することができるのだ。

 海水浴をしていて、こんな経験をした事はないだろうか。何もせずにぷかぷかと波に漂っていたつもりが、ふと陸地を見ると随分流されてしまっている。自分は動いたつもりがないのに、陸地がさっきより遠くに見える。しかし当然陸地が動いたはずも無い。
 僕らが外部の変化を知覚する時、そこには必ず基準となる指標が必要になる。その対象からの差異をもって、自分の置かれている場所や姿勢を確認するのだ。

 99式は雑多なテーマを扱い、気ままに書いている。しかしそれは表面上の変化で、内部構造つまり僕の自我は非常にゆっくりとしか動かない。僕は虎のような激しさを持たなければ、猿のような素早さもパンダのような可愛らしさも持たない。おそらく象のような、ほとんど動かぬ皮を被った何かだ。あるいは、指輪物語においてサムはフロドに「おら、じゅうを見ただ!」と言った。それでも良いだろう。

 僕は僕の主張をするが、それは決して読者に共感をせまるものではない。あくまで提案。読者一人一人の思考の触媒で良いのだ。それが例えウォッチであっても敵対者であっても構わない。宮本はこう考えている。しかし俺(漏れ)はこう思う! それで良い。
 それは解釈に幅を持たせるためのささやかな小細工によって引き起こされる効果でもあるかもしれないが、それだけではない。

 僕が文章を書く時に伝えたいと思って想定している対象は、限定的な特定少数の他者である事も少なくはない。しかしその場合も不特定多数に向けある種の翻訳のような意匠を織り込みながら部分的にでも伝わるよう試みている。解る人には解る人なりの、解らない人には解らない人なりの。友達には友達の、アレな人にはアレな人の、ウォッチャーにはウォッチャーの段階的解釈が存在していい。それが九十九式の自由である。あの大きな生き物は、サムにとっては「じゅう」であったのだ。

2002年 4月27日(土)

 僕ははたして「王様は裸だ」と言いたかったのだろうか。それは言わないのがお約束であっても、いつか誰かが言ったことだろう。いや、いつも誰かが言っていたことだろう。だが僕のその行為は、自らもまたサイト言及を繰り返す彼の立場からすれば抜け駆けあるいは背信行為であったのかもしれない。人々の努力を高みから笑う卑怯者に見えたかもしれない。
 だが一つ童話と違うのは、僕も裸であったという事だ。WEB言及批判は同時に自己言及批判の自虐であり、矛盾を内包した自嘲的態度でもある。(そしてWEB言及批判批判は自己言及批判を批判する破壊的言語ゲームなのだ。)
 僕が自分のWEB言及批判が単なる自嘲自虐でないと主張する根拠は、それが僕にとってのある種の真実、つまり本気であったと言うことに他ならない。
 考えても見て欲しい。キリスト教だって2000年前は存在しなかったのだ。ただイエスという一人の男が天国の存在を信じ、神の到来を説き、多くの人間がその共同幻想に見を投じることによって、ついには「キリスト教世界」を確立してしまったのだ。
 だが当然僕はイエスの如き超越者ではなく、ただその到来を待ち続けるだけの使徒に過ぎない。それでも僕は確信している。いつの日にか救いの御子は僕らの眼前にその光り輝く姿を見せ、僕らの魂は永遠に救済されるだろう!

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 では君に1つ問う。君は何の為に文章を書くのか。伝達手段としての機能を失えば、言葉はその時点で言葉ではない。ヒエログリフは、現代人にとっては単なる記号の羅列でしかない。伝える事柄を消失したら、いやそもそも始めから存在しないとしたら、果たして僕らにテキストサイトを運営する事は可能なのだろうか?
 伝えたい事の存在を否定する態度がナフ周辺のナフ周辺たる由縁であると仮定するならば、やはり僕もナフ周辺ではないのだろう。しかしそれは果たして自嘲だろうか。本当は伝える事など存在してはイケナイはずのに、伝えずにおれない己の愚かさを嘲藁うシニシズム?
 否、それは違う。それは批判者の声を相対化して逃げ続けるための防衛線ではなく、僕達の照れ隠し。(正確を期すならば、これは僕がかつて選んだ方法論。このサイトの名前は「ナフ周辺サイト」ではないので、ナフ周辺の画策するところを理解することは不可能。かつ周辺サイトは中枢に同化して存在しているのではなく、あくまで外縁に沿って円形に配置されているだけの放射状拡散的存在である。)
 では、その自嘲するサイトとは?

2002年 4月29日(月)

「くまプー解読」
 泥棒は他人を見ると泥棒と思う。全て人は自分を基準に考える為、自分がはたらいている悪事は相手もはたらく、あるいははたらこうとしているものとして見てしまうのだ。それと同様、他者に対する批判は大抵自分に返って来る。人を呪わば穴二つ。2ちゃんねるにおける、「オマエモナー」は、前世紀ネット社会最大の発明であったと言って良い。たった六文字で全てを相対化し、相手の主張を無効化する事が可能な、魔法の茶々。
 クマのプーさん Mugcup Collectionは、僕がテキストサイト=くだらないと断じ、その上で心的優位性を獲得しようとしている、と指摘した。しかしあの文章において僕が断じようとしたのは、「テキストサイト論なんてくだらない」と冷めた目をしている観客すなわち初めてのロックコンサートで言うところのB席の観客の態度であった。そのように座っている観客を、A席の熱狂に招き入れようとする為の、あれは一種のアジテーションだったのだ。それは当時のテキストサイト界の状況を併せれば容易に理解できただろうが、彼は誤読した。おお、なんとくまプー森下こそが誤読者であった!いや、違う、彼は意図的に解釈をずらしたのだ。何故か。それは、彼もまたテキストサイトがくだらないという事実を認識し、何の得にもならない事に時間と労力を割いている自分を自嘲的に眺めていたからではなかろうか!
 しかしそれは、例えばテキスレで名無しさんが呟くような疑問であり、僕らテキストサイト者がサイト上で発して良い疑問ではなかった。そんなある種の内部事情を暴露された事に対する怒り。共有幻想を破壊された失望。それが彼をして「九十九式再読」を書かしめた要因なのかもしれない。
 ただ、ここで注釈をいれるならば、彼の意図的な誤読をも責められたものではないのかもしれない。日記は日記単体としては成立し得ず、必ずそれが書かれた時の時代性に支配され、テキスト単体では存在することが出来ない。現に、1月3日の当日誌は、巷間に流布されていた「テキストサイト論はみんな馬鹿」という仮定に対するアンチテーゼとして書かれたものであるから、その過程にあえて目をつぶって取りだした時、そこには論者の意図に呼応して新しい解釈が成り立ってしまうのだ。かつてガダマーが『真理と方法』において指摘した通り、この不安定性こそが日記文化の特質なのである。
 あるいはこんな解釈も成り立つ。彼は「テキストサイト=下らないこと」として見ている宮本」に対して、憐憫の情を抱いている。この構造もやはり単純である。彼は「何の得にもならない草野球に本気になっている俺」に酔っているただの道化だ」、と宮本を糾弾する事によって、草野球の本当の楽しさを知っているとする自らの優位性を獲得したつもりになっているに過ぎない。九十九式は確かにミラーサイトである。 しかしそれは一般的テキストサイトのそれではない、解読を試みる者の無意識のミラーサイトなのだ。

 彼はアクセス数所有への意思を否定的に見ていると主張する。しかし僕らは今まで、彼が何度となくアクセスへの飽くなき渇望を文章中に覗かせるのを目撃してきた!例えば彼は、テキストサイト戦争が勃発すれば良い、とする冗談の中で「どうせ、負けたつて構つたものぢやねえ、一戦争のるかそるかやつつけることだ。勝てば勿論こつちのものだ、思ふ存分アクセス数をひつたくる。まけたつて大手ならそんなにひどいこともやるまい。」と語る。
 しかし、もしもそこを指摘されたなら、彼は「ネタだよ」と平然と返すだろう。当然、これがネタである事は僕らにもはなから解り切っている。しかしこの、過剰なまでのネタ姿勢が、彼の本質を見えにくくしている。
 恐らく実際にアクセス数が欲しくはないのだろうが、しかし全くそれを欲しくないとしたら、www上にアップロードしなければ良い。サイトを閉じて、それで終わりだ。OFF。パチン。だが彼はとにかくもサイトの更新を止めない。それでいて、「ふるい落とし」と呼ばれる技法をもってあえて読者を遠ざける。彼はアクセスの所有を否定しているのではなく、誤読者や悪質読者の存在可能性を消去した上で「真の読者」という名の共感者だけを獲得しようとする、テキスト選民思想という幻想の肯定者だったのだ。

 端的に言えば増えたアクセス数には必ず責任がつきまとうものである。相互主観性闘争に勝ちつづける者の肩にのしかかるのは、見のこなしを大きく制限する鋼の鎧。勝てば勝つほど装備は重厚になり、いつしか刺客に隙間を貫かれることだろう。過剰なネタやめまぐるしい(そして難しい)ネット言及を繰り出すくまプーの身軽さの本質は、闘争を最初から放棄する無責任に由来するものだったのだ。

 ならば僕は認めよう。相互主観性闘争において常に勝利をおさめ、獲得しよう。逃げまわって死角から毒矢を打つよりも、鎧を身につけたままでも上手く立ちまわる訓練をしよう。
 そして、時には鎧を脱いで素早さをも獲得しよう。僕らが愛した伝説超人・ロビンマスクのように!

おわり

2002年 4月30日(火)

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