原爆の日

2004年8月6日 金曜日

アメリカこそ核兵器を保有し、極東のナガサキとヒロシマで人民を攻撃したのだ。すでに日本が降伏し、世界大戦が終わりかけていたにもかかわらず、子供も女も老人も一緒にした、人民全体の攻撃に固執したのである。

 今日は、米国による広島大虐殺事件が起こった日である。つまり広島では五十九回目の原爆の日を迎えた。北朝鮮の核の脅威が増大している昨今、唯一の被爆国としての日本の立場から、反核平和への声を世界に広めるのは当然の責務である。

 いや、本当にそうだろうか。戦争をしたい国、戦争に負けたくない国、他国を威圧恫喝したい国にとっては、逆効果ではないだろうか。原爆はこんなに悲惨だ、こんなに多大な被害を与える、見よあのキノコ雲を、街は一瞬にして炎に包まれ、以後何代にも渡って後遺症に苦しむのだ……、と言われれば、そうかそれは素晴らしい兵器だ、となる人間もいるのではないか。例えば朝鮮の陰毛ヘアの将軍のように。

 冒頭にあげたのは、かの有名なビンラディンの声明文の一説である。彼はここから、非人道的な野蛮国アメリカへの攻撃の正当性を主張する。これは、ラディンが特別極端な考え方をもっているとか、博学であるとかいう以前に、アラブ世界ではこのようにヒロシマを持ち出して対米武装闘争を正当化する論法は非常にポピュラーなものであるらしい。

 ここに「日本はどう報じられているか」という本がある。この中でも、

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「日本は核兵器で破壊しつくされ、敗れた

 →それによってアメリカに対する怨念を抱き、復讐の機会をうかがっている

 →であるからアメリカは決して日本に核兵器を持たせない

 →それゆえ日本人は逆にアメリカに核兵器廃絶を求める戦術で対抗している」

という論理展開のほうが世界的には自然に聞こえる、と指摘されている。なるほど、確かに他の国だったら、あれだけの残忍な仕打ちをされれば、何十年かけても報復しようとするだろうし、日本の反核団体がアメリカには抗議するのに、支那や露西亜には何も言わないのも、これで説明がつく。

確かに、

原爆を投下された → よって原爆を保有しない

というのは、よく考えると論理展開としてそれほど自然ではない。

むしろ、

原爆を投下された →2度と投下されないような実力をつける

という論理展開のほうが「過ちを繰り返さない」という主張に合致するように見える。

 ならば日本は唯一の被爆国として、その高い技術力を結集し、核兵器をしのぐ破壊力を持ったクリーンな兵器の開発を急ぐべきである。モンティパイソンのコントにあったような、「それを見るとあまりのおかしさに笑い転げて窒息死してしまうギャグ」のような兵器が望ましい。

(イギリス軍兵士が、そのギャグがドイツ語で書かれたフリップを持って突撃すると、ナチス兵士がバタバタと笑い死んでいくという素晴らしいコント。『モンティパイソン・アンド・ナウ』収録)

この兵器を実戦に投入した → ギャハハ腹いてー! ガクッ

日本はどう報じられているか

 日本人は「世間体」という言葉に代表されるように、一般的に他者の目を気にする。その流れかどうか、他国からどう見られているかも、明治開国以来常に気にしてきた。中韓米の日本報道などはよくメディアでも紹介されるが、アラブで今の日本がどう見られているのか、という情報は意外と少ない。そういう面でもこの本はなかなか興味深かったが、著者がひとりではなく、それぞれの国の専門家が集まって、なるべくニュートラルな記述を心がけている点も評価できる。

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