ブログも社会人も、認められないと存在できない

2011年5月7日 土曜日

震災によって、交通機関の麻痺や節電のあれやこれやで、一時期「自宅待機」というのが流行った時期があった。
職種によっては、ネット環境さえあれば別に職場に雁首そろえてなくてもできる仕事もあったりするわけで、出社しなくてすむなら願ったりかなったり、のはずだった。
しかし、ある種の人は「会社」に出社しないと言いようのない不安にさいなまれたりもするわけで、「自宅待機」と言われているのにふらふらと会社に向かってしまう人が続出したらしい。

「自宅待機」なのに、気がつけば彼は会社に向かっていた

 「這ってでも来い!」と言われれば、「休ませてくれよ!」と思うのに、「休みなさい」と言われて、「はい、休みます」とは素直に思えなかった人たち。

 「忙しい~」と悲鳴を上げている時には、「ヒマになりたい」と願っていたのに、「ヒマになった」途端、不安になった人たち。

 そして、彼らは、いや、正確には前述の彼は、「休め!」と指示されているにもかかわらず、会社に行ったそうだ。

 「ラッキー! 家でゆっくりしよう!」とは到底考えられず、「だったら、家で仕事をしよう」とSOHO気分にもなれず、気がつけば会社に向かっていた。

 いつもよりゆっくり自宅を出たし、いつもよりラフな服装だったが、「なぜだか行ってしまった」という。

 忙しい人=仕事ができる人、ヒマな人=仕事ができない人、という思い込みから、「僕、ヒマなんです」とはなかなか言えない。

 同様に、不要不急の仕事をやっている人=存在価値のない人、という図式がチラつき、素直に「行かない」選択ができなかった。重要な仕事をしていると信じていたことや、忙しいと感じていたのが、単なる思い込みだったなどとは、認めたくないという気持ちもあったのかもしれない。

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まぁ僕もこれほど重症ではないにしても、定時で帰るときとか「本当にこれで帰っていいのだろうか?」と不安になったりすることもあるし、休みの間に気になってしまったりすることもある。まあこのくらいなら普通か。

現代人を襲う「承認不安」

これは、職場における自分の存在価値というものが、他者からの評価が基準になっているために、主観的に自分を認めることができなくなってしまうからだろう。つまり「承認不安」が生じているのだ。

「価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、事故価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。」 「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 – 情報考学 Passion For The Future

しかし、そもそも会社組織で働くと言うこと自体が、他者からの評価によって自らの価値を定義する行為でもある。
顧客に自ら(の会社)を売り込み、認められ、その業績をもって人事考課が行われ、存在意義と価値が報酬という対価に変わる。人間社会に存在している以上、避けられない不安なのかもしれない。

ブログ運営と「承認」

考えてみれば、ブログ運営だってそうだ。
人はサイトを持ったとき、アクセス解析やカウンターを設置せずにはいられない。リンク、トラックバック、ブックマーク。自分のサイトが果たして他社からどのように見られているか、受け入れられているか。それなしにはインターネット上のサイトは存在し得ないからだ。
すると、アクセス数が減ったらショックを受けて運営できなくなってしまったり、PVが多いのに反応が少なかったら「沈黙のオーディエンスが…」と言って閉鎖してしまったりする。

しかし時には、仙人のごとく、他者の評価とは関係なく、まるでローカルのメモ帳に書き連ねるように淡々と日記を更新できる人もいる。こういう人は、たとえネット環境から遮断されようとも、日記を書くことができるのだろう。

ちなみに僕も人並みにアクセス解析が好きで、毎日チェックをしてしまう。しかし実はEvernoteの中に、秘密の日記ノートがあり、その中には自分以外が誰もみることのない、日常日記が毎日更新されている。
たぶん、どちらの要素も人には必要で、でも最終的には自分で自分のことを認められるように持って行かないと、ブログ運営も人生もつらくなってしまうときがくるんじゃないかな、と思う。


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