高橋名人との思い出

2011年5月23日 月曜日

あの伝説的人物、ハドソンの高橋名人が、とうとう退社することを決意したそうだ。
ファミコン世代のみんなには特に説明は不要かもしれないが、高橋名人は、ファミコンブーム黎明期に、「ファミコンゲームの名人」としてテレビや雑誌にイベントにと活躍した、ハドソンの社員である。
実は高橋名人は、ファミコンブーム、名人ブームが去った後も、ハドソンに普通に勤務していたのだった。

さて、実は僕は、大人になってから高橋名人に会ったことがある。

高橋名人の「退社報告」

本当に急な話で申し訳ございませんが

5月31日でハドソンを退社する事になりました。

今後は、ゲーム業界全体を応援し、またゲームの楽しさを伝えていけるように
頑張っていきたいと思っています。

なお、これにともない、こちらのブログ「16連射のつぶやき」も、クローズする事になります。

私がハドソンに入社したのは、1982年の8月21日

ハドソンの高橋として、まんが祭りのステージに立ったのは、1985年3月ですが
高橋名人として、みなさんの前に最初に立ったのが、1985年5月3日の
柏、高島屋さんでの「スターフォース発売前ファミコン大会」

そして「16連射のつぶやき」を始めたのが、2005年の7月15日

今から26年前にみなさんの前で出て来たわけですから
人生の半分以上もの間、「高橋名人」でいられたというのも、不思議な感じがします。

退社報告 | 高橋名人公式ブログ 16連射のつぶやき | 高橋名人 OFFICIAL SITE 16SHOT

高橋名人、「名人」を語る

6~7年前の話だったと思う。僕がライターの仕事をしていたときの話だ。ケータイにハドソンのファミコン時代のゲームを移植するキャンペーンの販促で、高橋名人に取材することになったのだった。

高橋名人は、気さくでサービス精神旺盛な方で、嫌な顔一つせず、これまでさんざん取材で話したであろう、ファミコンブーム時代の話をしてくれた。

「仮にも『名人』を名乗るからにはさ、子供たちにヘタなところ見せられないよ」
「あの頃、他社も真似してたくさん自称名人が登場したよね。でもみんなすぐに消えていったでしょ」

当時、高橋名人というコンセプトの成功を目の当たりにしたゲームメーカー各社は、こぞって自社の社員を「名人」に仕立てあげてメディアやゲーム販促イベントに送り込んだ。
しかし、その後は周知のとおり。M名人もH名人も、あっという間に消えていった。

「だって本物じゃないんだもん。子供ってそういうところは敏感だからさ、その人が本当にゲームの名人なのか、そうじゃないのか、すぐにわかる」
「ゲームがうまかったり、連射が速かったりだけじゃダメだね。名人を名乗るからには、魅せるプレイをした上で、圧倒的な技量を見せつけて、しかも勝つ! 決めるところで決められなきゃ、名人とは言えないね。」

もちろん高橋名人は、名人である前に社員だったので、一日中ゲームの修業だけしているわけにはいかない。通常の業務をこなし、ゲームのリリースが重なったピーク時には、平均睡眠時間2時間半という激務の中、それでもゲームの練習を欠かさなかった。名人というのは、そういうことだ。

今でも、名人

―あの、連射というのは、今でもなさるんですか。

我ながらつまらない質問をしてしまったが、名人はにやりと笑って、会議室の机にすっと指先を立てた。

ズダダダダダダダダダダッ!

手にモーターでも仕込んでいるんじゃないか、というくらいの迫力だった。
今は16連射まではいかないと語っていたが、それでも常人を遥かに超える連射能力であることは確かだった。机に穴が開くんじゃないかと思った。スイカを持参していないのが悔やまれた。

名刺交換をすると、高橋名人の名刺には、通常通りに会社名、部署名、と来て、名人と書いてあった。

株式会社ハドソン
宣伝部
名人 高橋利幸

―こ、これは…!ハドソンでは“名人”ってオフィシャルな肩書きなんですか?
「もちろん、名人の名刺は社内で僕だけだよ」

2004年の話だ。

高橋名人は、スイカを16連射で叩き割ったあの日から、ずっと名人でい続けた。今までも、そしてきっとこれからも。

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あの時もらった名人の名刺は、今でも僕の机の引き出しの中にそっとしまってある。


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