禊
暴力と差別を肯定し、軍国主義の復活を唱える極右ファシストの宮本です。こんばんは。良識派とはまさに僕のことだ。聞け、めくらども。
かつて、ジオン・ダイクンは「人類の革新は宇宙の民たる我々から始まる」と言った。そして、僕はかつて「このサイトに対してどのような反応を示すか、それは自由だ。」と宣言した。それは、「僕が自由だから君も自由で良いよ」という交換条件としての宣言ではない。
僕は「ミラーサイト」を作っている。いわゆるミラーサイト、そっくり同じデータを置いてあるサイトとしての意味ではなく、九十九式はカガミのようなサイトでありたい、という意味だ。
僕らが鏡を見る時、それは自分の姿を確認したい時だろう。鏡を見る事によって初めて、自分を擬似的他者として客観的に知覚することができるのだ。
海水浴をしていて、こんな経験をした事はないだろうか。何もせずにぷかぷかと波に漂っていたつもりが、ふと陸地を見ると随分流されてしまっている。自分は動いたつもりがないのに、陸地がさっきより遠くに見える。しかし当然陸地が動いたはずも無い。
僕らが外部の変化を知覚する時、そこには必ず基準となる指標が必要になる。その対象からの差異をもって、自分の置かれている場所や姿勢を確認するのだ。
99式は雑多なテーマを扱い、気ままに書いている。しかしそれは表面上の変化で、内部構造つまり僕の自我は非常にゆっくりとしか動かない。僕は虎のような激しさを持たなければ、猿のような素早さもパンダのような可愛らしさも持たない。おそらく象のような、ほとんど動かぬ皮を被った何かだ。あるいは、指輪物語においてサムはフロドに「おら、じゅうを見ただ!」と言った。それでも良いだろう。
僕は僕の主張をするが、それは決して読者に共感をせまるものではない。あくまで提案。読者一人一人の思考の触媒で良いのだ。それが例えウォッチであっても敵対者であっても構わない。宮本はこう考えている。しかし俺(漏れ)はこう思う! それで良い。
それは解釈に幅を持たせるためのささやかな小細工によって引き起こされる効果でもあるかもしれないが、それだけではない。
僕が文章を書く時に伝えたいと思って想定している対象は、限定的な特定少数の他者である事も少なくはない。しかしその場合も不特定多数に向けある種の翻訳のような意匠を織り込みながら部分的にでも伝わるよう試みている。解る人には解る人なりの、解らない人には解らない人なりの。友達には友達の、アレな人にはアレな人の、ウォッチャーにはウォッチャーの段階的解釈が存在していい。それが九十九式の自由である。あの大きな生き物は、サムにとっては「じゅう」であったのだ。
つづく
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