『2nd W』感想文

2005年3月14日 月曜日

 遅くなりましたが、W(ダブルユー)の新アルバムの感想でござる。

2nd W W(ダブルユー)の新作アルバムが発売された。全曲カバーだった前作に比べ、今作ではこれまでにリリースされたシングルを含む、オリジナル曲中心の構成となっている。
 曲目を一見してすぐに気付くのは、全編に散りばめられた「17歳」というキーワードだ。『デコボコセブンティーン』『十七の夏』『十七歳よさようなら』など、2人が17歳であることを意識しすぎている、というより、執拗なまでに聴き手に意識させようとしているようだ。これが現在のW(ダブルユー)のモードを端的に示している。

 W(ダブルユー)を語る上で、ミニモニの存在を無視するわけにはいかない。モーニング娘にとって『LOVEマシーン』という曲がブレイクスルーになったのと同じく、W(ダブルユー)の辻・加護にとってのそれはミニモニというユニット自体だからだ。

 しかも本作は、様々な曲調を節操なく詰め込む構成になっている。この点で、同じくバラエティに富んだ構成だったミニモニの最高傑作『ミニモニ。ソング大百科1巻』を意識せざるを得ない。『ミニモニ。~』がおもちゃ箱をひっくり返したかのような世界だとしたら、『2nd W』では、女子高生の化粧ポーチをひっくり返したような乙女磁場が展開されている。そう、あまりにも乙女。
“鬼も十八、番茶も出花”という言葉もあるとおり、満17歳というのは、人の一生で最も華々しく、女性が最も瑞々しい魅力を見せる時期である。しかし、だからこそ、というべきか、乙女であるがゆえに“普通”なのだ。

 ミニモニの特異点は、彼らが恋愛の歌を全く歌わなかった点にある。日本にあるポップソングは、全て恋愛をテーマにすることを宿命付けられている。この原則を外れるのは、一部の人生応援ソングや、コミックソングに限定される。ミニモニは、“子供じゃないのにお子様”という特異なキャラクター性により、ポップソングの文脈に踏みとどまったままで、その枠を打破した。(末期ミニモニが、曲に恵まれながらも凡庸だったのも、ここに理由がある)

 そんな2人が今や17歳の乙女として、乙女力全開で恋愛日記を歌っている。すると普通の人が特別になる時期が、W(ダブルユー)にとっては平凡な時期になってしまったのだ。この逆説こそがW(ダブルユー)の悲劇であり、このアルバムが凡庸な作品になってしまった原因といえるだろう。
 しかしこれは決して、単なる回顧主義、ロリコン趣味ではない。このアルバムは2人による人間宣言である。W(ダブルユー)としてのキャリアはこれから始まるのだ。まだ長い長い人生を少し駆け出したばかり。それが証拠に、歌手としての2人のパフォーマンスは確実に、飛躍的に向上している。今後は、キャラクター性と同時にアーティスト性を兼ね備えた特異存在に成長してくれることを願っている。ロボキッスでその片鱗を見せたように。3枚目以降の作品に期待したい。

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 しかしこの作品の意義は、それでも2人の17歳という年齢を意識したところにある。問題点も評価点も、ここに収束するのだ。その意味でやはり17歳は特別だった。本稿の論旨と矛盾するようだが、傍から見れば普通でも、個人としての2人にとって2度とは巡ってこない特別な季節である。2人がこのアルバムを聞いたり、歌ったりするたびにそれを思い出すだろう。それはまさに“アルバム”としての役割。17歳の記念アルバムであり、ミニモニ(モーニング)からの卒業アルバムだったのだ。—–


この記事の評価は:

うーん…いまいち…ふつうですかなり良い素晴らしい (まだ評価されていません)
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コメント / トラックバック 3 件

  1. nekoprotocol Says:

    ( ´・ω・`)メイブンデス

  2. 匿名 Says:

    何となく感じてた違和感の正体が解った気がします。

  3. 宮本 Says:

    この違和を感じさせないようにするのが今後のW(ダブルユー)とつんく♂の課題、といったところでしょうか。

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