先週3月10日は、東京大空襲記念日だった。60年前のこの日、一夜にして東京は灰燼と化し、無辜の市民が10万人虐殺された。そんな記念日を目前にした3月9日に、かのブッシュ大統領は「プリオン肉買えー買えー」と小泉に電話をかけてきたそうな。
さて九十九式では、
“東京大虐殺”という呼称を使った。これはまぁ言葉遊びだったんだけど、割と昔からある表現で、しかも今年になって使う人が増えていたらしい。ARTIFACT@ハテナ系で取り上げられていた。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050313#tokyogenocide しかしそこでは、東京大虐殺の呼称問題としてリンクがなされていながら、話題は呼称ではなく、米軍の大量虐殺作戦の是非について語られていた。これがちょっと随分アレなので、少々思うところを。
ARTIFACT@加能瀬氏は、空襲や原爆について
「一つの戦闘として見れば、人道的に許されない軍事作戦なのだが、歴史の大きな流れでみて、それによって救われた人たちも多いのだろうと考え始めると、空襲や原爆の評価が難しくなる。」
としている。……評価?
実際に本土上陸作戦が実行されたとして、双方にどのくらいの犠牲が出たかは分からない。しかしここで一つ明確にしておきたいのは、「東京を焼き払い、核攻撃をしたほうが少ない犠牲で戦争を終えられた」というのは、それを証明する方法がない上に、あくまでもアメリカの論理であるということ。しかもここでの比較は米兵の犠牲の数の多寡であって、日本側の犠牲者数ではない。当たり前だ。いくら上陸作戦が決行されたからといって、民間人が50万人も死ぬものか。(そもそも軍人と民間人の犠牲は別問題。)
「歴史の大きな流れ」を見て、原爆や空襲を「評価」できるのは、神の視座か、あくまで無関係な第三国人にできることであって、我々当事者の態度ではない。それは別に冷静さを欠いた思考というわけではなく、“戦争の悲惨さ”“アングロサクソンの野蛮さ”を後世に語り継がねばならない日本人としての責任ある態度の問題だ。それを氏は、アメリカ兵が死なないためには、日本人が数十万人虫けらのように焼き払われてもいい、と言っているのである。
また結論として
「アメリカが人道的に許されない軍事作戦を実行したことは当然批判すべきなんだけど、当時の日本もまた、そんな圧倒的な軍事力の差を見せられても、まだ戦争を止めようとしなかった。そういう判断のできない国だったんだから。」
とあるが、戦争を止めなかったからどうだというのか。これは結局、「なぜ圧倒的物量差があるのに戦争をしたのか」という開戦責任に話が戻ってしまっているだけで、東京大虐殺および原爆投下の口実にはならない。それに「圧倒的な軍事力の差」が東京大空襲や原爆だとすると、順番もおかしい。
「アメリカが人道的に許されない軍事作戦を実行したこと」は単純に「批判すべき」ことであり、いかなるエクスキューズをもってしても相対化されうる性質の問題ではない。日本が戦闘を継続したから市民を大量虐殺した。何だそりゃ。これもまた結局、「日本が戦争を起こしたから悪い」の派生形でしかない。こういう意見を自然に抱いてしまう加能瀬氏もまた、アメリカの占領政策と戦後教育の犠牲者と言えよう。