又八という物語 (バガボンド31巻)
連載初期から、ずっと又八が嫌いだった。物語の都合上、いないと困るキャラクターなのは理解しているつもりではいたが、どうしても好きになれなかった。友を妬み、人を騙し、口ばかり達者で物語のすき間をうろちょろするしょうもない脇役、と思っていた。
しかしこの巻では、物語の大部分が、又八を描くことに費やされていた。
母と又八
余命いくばくもない母と出会い、嘘を捨て、自分の弱さを認める又八。自分を見つめ直し、母をおぶって郷里へ帰ろうとする途中で滝壺に身を投げて死のうとするも、やはり死に切れない又八。
そして、そんな又八を勇気づけたのは、彼の虚勢も嘘も全て見抜いた上であえて騙されて息子を認めつづけていた母だった。全てを吐露した又八を、それでも最期まで立派に励ましつづけた母心。
このオババも苦手なキャラだったが、31巻で全く見方が変わった。又八の幼少の頃から今まで、どんな思いで見てきたか。たとえ実の親子でも殺し合うことはあるが、逆にこうして血が通っていなくても本当の親子になることもあるのだろう。それは縁であり、絆だ。親子の元になる夫婦だって、元は赤の他人同士なのだから。
この巻でも井上の画才は十二分に発揮されているが、同時にストーリーテラーとしてのセンスが、又八のエピソードを一気に余生まで描ききってしまった所に表れている。辻講談で自分の半生と武蔵の活躍を語る又八翁の姿から、読者は永遠なる凡人、又八の余生が穏やかなものであったことを知って安堵する。
凡人という才能
又八は凡人である。特に才能もなく、野心は人一倍あるが、生来が怠け者なため、女におぼれ、酒におぼれ、何もかもうまくいかない。
バガボンドは、宮本武蔵と佐々木小次郎の物語だ。500年後も語り継がれる剣鬼と、聾唖の天才剣士。このあまりにも非凡なる二人の物語は、ともすれば凡人には預かり知れぬ領域として、それこそバキvsピクルのような現実感のないショーになってしまう。
しかしバガボンドの読者は、どこまで行っても永遠の凡人たる又八を通して物語を感じることができる。
誰しも、若い頃は自分が非凡な何者かになることを考えたことはあるだろうし、苦しいことから逃げて酒を飲んでだらだらしてしまうこともある。自分を大きく見せようとして嘘をついてしまうこともあれば、そんな自分を嫌悪してちゃんとしようとして…それでもうまくいかなくてまた自己嫌悪したりすることだってある。劇中の又八に嫌悪感を覚えるとすれば、それはおそらく又八のキャラクター類型の中に、自己の弱い部分を見るからだろう。そしてそれはおそらく井上の狙いそのものに他ならない。
だからこそ、誰の心の中にも又八がいるからこそ、我々は又八を嫌うし、あるいは好きになるし、ときには又八を通して自分の人生を考えてしまったりもするのだろう。又八は、バガボンド世界になくてはならないもう一人の主役だった。
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2009年10月9日 at 17:40
まったくおっしゃる通りです。
通りがかりですがコメントしてしまいました
2009年10月23日 at 10:24
ありがとうございます。またこの辻説法ブログに通りがかってください。
2010年2月11日 at 23:19
僕は、31巻の自分の弱さを認められた又八と、それを励ましてくれた母親の所で泣いちゃいました(/_;),
自分の弱さを認めるって事は実は強いってことなんですよね。
自分がどこにいるか分かるって事は、進む方向も解るってことだから。
2010年2月12日 at 09:18
そうですね、それも人間としての強さの一つですね。
そして母は強し、です。ブワワッ