ブログはドラクエ、テキストサイトはウィザードリーだった
九十九式においては、常に「自由」を合い言葉に掲げてきました。書くのも読むのも自由。更新頻度も自由。テーマも自由。とにかく自由。何でも自由。しかし、だからといって自由にのびのび日記が書けていたかと言えば、必ずしもそうではなかった気がします。自由を強調するあまり、それが自縄自縛となって何をして良いか分からなくなってしまう。人は本当の自由の中では生きられません。
「毎日更新」はルール足り得るか
強いて言えば、「毎日更新する」というのが縛りではあったかも知れない。しかしそれは行動上の規定であって、内容までは規定されない。しかし実は規定すべきは更新頻度ではなくて、内容であったか、と言うことに最近ようやく本当に気づきました。
例えばゲームの世界で、よく「自由度が高い」というのが褒め言葉として使われていますが、あれも本当に自由なわけではない。あくまでもゲームのルール上の制約があって、そのなかでプレイの許される幅が大きいからこそ、自由感を楽しむことができるわけです。右も左もなく、ルールもなかったら、それはゲームとして成立しません。
サイト運営も、これと同じことが言える。「このサイトでは何を書いても良い」と言われたら、逆に書きづらくなります。例えば就職面接でも、「では自由に自己PRをしてください」と言われるよりも、「これまでで一番うまくいった仕事について教えてください」とか聞かれた方が応えやすいですよね。
ブログがテキストサイトより真に優れていた点
そう考えると、ブログというのは最初から「カテゴリー」という機能が所与のものとして全てのユーザーに与えられているので、これは実に親切なシステムだと言うことが分かります。テキストサイトの自由はあまりにあまねきため、右も左もないフィールドに放り出されても、一人でアリの行列を眺めたり、間接がどこまで無理できるか試したり、尿意の限界に挑戦してみたり、そういう何もないところに自分で遊びをひねり出すような才能がないと運営は難しかった。(そこに何人か集まって界隈が生じ、ワイワイと世間話をする、という楽しみ方もあるわけですが、そうした楽しみ方はSNSやTwitterの方が数段洗練されているので、今更テキストサイトでそうした楽しみ方は生まれない)
ブログならば、最初から投稿欄があって、カテゴリー指定欄があって、何をすればいいのか見た瞬間に分かる。「おきなさい みやもとや きょうは おまえが はじめて城にいくひでしょう」に始まって「まおう ナミを たおすのじゃ」と目的を与えられ…というほど手取り足取りではないにせよ、最初に「カテゴリー」というのを見れば「ははぁ、ここでネタをカテゴライズしていくのだな。じゃあ日記、マンガ、と…」とツールとしてのカテゴリーを装備していくことができるというわけです。
テキストサイトは、テキスト…というくらいだから何か書けばいい、というのは分かるけど、それは洞窟にフラフラ入って行くようなもので、どこまで行っても手探りになってしまうんですね。しかも記事をアップするには、エディタやFTPなどの仕組みを理解しなければならない。
つまり、ブログはドラクエ、テキストサイトはウィザードリーだったと。
これからの当サイトは
そこで僕が到達した結論は、テキストサイト的なブログ、というものです。ブログ的なテキストサイト?どっちかよく分かりませんが、テキストサイト的な内容をブログ的な書き方で更新していこう、というくらいの意味です。(自分で書いててもやっぱりよく分かりませんが)
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ここからの九十九式は、カテゴリーを最初から打ち出し、これは書く、これは書かないというのを明確に峻別していきます。その方が書く方も楽で楽しいし、読む方も自分の嗜好に合わないものを無理して読まなくて澄む。(ずっと悩んでたんです。「時局を鋭く切り取る姿勢が素晴らしい!」という声と「政治ネタは読みたくないです」という声とのギャップに。)
九十九式で今後書いていく内容はこんな感じにしようと思っています。
- インターネットの話
- サイト運営論
- ブログ論
- Webサービス紹介
- 日常の話
- 日常トホホ日記(目指せプチ日記)
- マンガの感想
- ゲーム(戦場の絆)
- テレビ、芸能(特撮とか)
2009年9月20日 at 15:44
>まおう ナミを たおすのじゃ
リアルに緑茶噴くかと思いました
2009年9月28日 at 16:44
まあ笑点で言うところの歌丸いじりというか、お約束と言うことで!
2009年10月18日 at 17:50
この方は文上手いよなあ