仮面ライダー響鬼 最終話

2006年1月23日 月曜日

 2005年度のライダーシリーズ『仮面ライダー響鬼』が終わった。『響鬼』はシリーズの『完全新生』を謳い、「ある日突然、変身能力を手に入れた主人公が、超人となって怪人と戦う」という仮面ライダーの基本文法を逸脱し、和風テイストを取り入れた実験作だった。

 企画当初の仮タイトルは『音撃戦士 響鬼』だったくらいで、劇中には「ライダー」という単語は全く出てこなかった。主人公は“鬼”と呼ばれていた。ここでの“鬼”とは、古来より日本の各地に現われて人に仇なす魑魅魍魎を退治し、人間社会を守ってきた戦士という設定である。“鬼”になる人間は、人里離れた山中にこもって何年も修行し、師匠の鬼に鍛えられることによって、鬼になる体と能力を手に入れる。

 これはまさに“道教”、あるいはその日本的解釈である“修験道”の世界である。今までのライダーが、改造手術だったり変身ベルト&カードだったりとタナボタ式にヒーローになっていたのに対し、『響鬼』は修行によって変身するのだ。一見無茶苦茶だ。しかしこの無茶苦茶な設定が割とすんなり受け入れられたのは、こうした日本古来の民俗宗教的感覚が、現代人の心にもどこか残っているからかもしれない。

 個人的な話をすると、2004~2005年の僕のテーマは「己の体と心を鍛える」だった。生まれて初めて本格的な筋トレを開始し、四書五経を読み、剣を習い、古武道の門を叩いた。アクションスタントの練習も始め、勉強のためにヒーローものを観始めた。そんな折に出合ったのが、『仮面ライダー響鬼』だったのだ。自分より少し年上の主人公。泥にまみれて、一生懸命戦う姿。熱い師弟関係。いつの間にか引き込まれていた。

 脚本やプロデューサーの交代劇、それに伴う作品カラーの変更は人々の間に議論を巻き起こし、僕もやはり疑問を感じた。作品のテンションとしては、やはり29話がピークだったと思う。しかし、そんなゴタゴタも、この魅力的な世界観と設定、音楽と映像、そして人物たちの魅力を決定的に減じるには至らなかった。

 商業的には成功しなかったかもしれない。色々と批判されることもあるだろう。単なる子供向け特撮の1作品として消費されて終わっただけのものかもしれない。
 でも、僕はこの1年がかりの成長物語と、それを見続け、共に己を鍛えた日々とを忘れることはないだろう。そして、番組内外で様々な敵と戦い続けた鬼達のことも。

●最終回雑感
川に落とされるだけの鬼や、童子と姫を倒しただけの鬼、名簿に載っていただけの鬼のことも忘れはしない…。どうせなら、最後くらいみんな出せば良かったのに。ほとんどの鬼は、せっかくスーツも作ってあるのにOP主題歌だけの出演となった。キリヤの変身に時間を割く余裕や予算があったら、“オロチ”の時には「関東十一鬼集結!」とかやっても良かったのではないか。あれだけ魔化魍が出てくるのに、サポートを2人しか使わないのは不自然だと思う。

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あと、30話以降は破綻に次ぐ破綻、広げた風呂敷も何とか畳んだような最終話だったけど、最終的にこの評価に落ち着いたのは、ラストシーンと響鬼さんのあの台詞によるところが大きい。しかしこのインタビューを見る限り、どうも細川さんの発案のような気がする。何も言わなかったらどんな結末になってたんだ…?
ラストインタビュー。響鬼さん…。


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