謝罪は解決策にあらず

2005年4月22日 金曜日

 今日、とある50代の男性が「小泉が靖国神社へ行くのを辞めて、あのヘンな教科書の承認を取り下げればいいんだろうが。おかげで輸出関連は大赤字だ」などとしたり顔で言っているのを前にし、思わず「あなたはどこの国の人間か」と言い争いになった。目先の利益を追い求めて、自国の歴史や正当性、ものごとの道理をないがしろにすれば、必ず後々まで禍根を残すことになる。つい10年ほど前にも、宮沢・河野などの売国奴が“コトナカレ土下座”で示したとおりだ。

 1982年に、「教科書の「侵略」が「進出」に書き改められた」とメディアが一斉に報道した事件があった。これは有名な誤報事件で、実際にはそんな事実がないことはすぐに分かった。しかしときの官房長官が宮沢喜一は、首相の訪支が控えていたために「教科書検定の際は近隣諸国に配慮する」との“宮沢談話”を発表した。ことを荒立てないための先回り土下座。これが忌まわしき近隣諸国条項のきっかけである。

 その後、吉田清治という詐話師によって“慰安婦”問題が焚きつけられた。92年、今度は自らが首相として韓国を訪問した宮沢は、空港で激しい反日デモに迎えられ、盧泰愚大統領から従軍慰安婦についての「歴史認識」を迫られ、加藤紘一官房長官が「慰安所の設置などで政府の関与があった」と公式に認めてしまった。しかしここで言う軍の関与とは、慰安所業者に対して「施設の衛生を万全にせよ」と指導する文書でしかなかった。
 それなのに、河野官房長官はさらに「慰安婦を強制連行したことを認める」と謝罪してしまった。しかし、当時から今に至るまで、強制連行を説明する文書、証拠はひとつも見つかっていない。

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 彼らに共通する姿勢は、「とりあえず無条件に謝ってこの場を納めよう」という、無責任な事なかれ主義である。その結果は、日本はセックススレイブを制度として持った恥ずべき国として世界に誤解され、中韓には便利な対日歴史カードを与えただけだった。
 こうした無責任な態度は、その場を形だけ納めて未来にツケを残すだけである。しかもそのツケは、利息でどんどん膨らんでいく。
 現在の日本外交は、領土問題でも教科書問題でも、今のところ不用意な発言をせず、冷静に対処しているようである。

 冒頭の50代男性の発言に戻ってみよう。「小泉が靖国神社へ行くのを辞めて、教科書の承認を取り下げればいい」本当にそうだろうか。中国経済は遅かれ早かれ独裁政権と共にコケるだろうし、さらには、小泉首相が靖国神社を撤去し、扶桑社の教科書を焚書にしたとしても、中国の基本姿勢はおそらく変わらない。それらはあくまで言いがかりの端緒に過ぎないからだ。
 では、反日運動の原因は何だろうか。長くなったので続きは明日。か、考えてないわけじゃないぞ! 本当だぞ!


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コメント / トラックバック 11 件

  1. 津短 Says:

    いや?続きが気になります!
    でも多分言ったとおり中国は例え謝罪しても変わらないでしょうね。今は今の話題で暴れようって気が国民にあるような気がするし。歴史をあされば南京大虐殺とか731とか色々あるんですし。しかも19日に南京大虐殺訴訟の原告側控訴が棄却されたそうです。火に油を注ぐことにならなければ良いのですが…

  2. くろねこ Says:

    取り敢えず靖国に議員どもが押しかけたわけですが、これは勢力の均衡化に繋がるのかな。

    小泉のアジアアフリカ会議での謝罪表明は評価すべきなんでしょうか。

  3. パチョレック石川梨華 Says:

    宮本さんへ
    僕の入門した空手の先生が書いているコラムなんですが勝手にコピペします。う座買ったら削除してください。(明日は2回目の稽古です)

    武道からみた専守防衛

    専守防衛という概念が現在どのような政治状況で使われ、そして解釈されているのかはテーマにしない。武道という視点からこれを考えてみたい。専守防衛を常識的に解釈すれば、「攻撃を行わず守りに徹する」ということになる。この考えは、こちらからは一切の攻撃は行わず、向かってくる暴力に対しては防御だけで対処するということだ。極めて崇高な思想であり、ある意味護身術としても理想論であろう。しかし、これを単なる技術論として捉えた場合、極めて難しい高度な要求であることが分かる。組手を行う場合、もし一切の攻撃は行わないと片方が宣言したらどうなるか。普通はもう勝負にならない。あらゆる受け技は攻撃と一体になって初めて意味を持つようにできている。攻撃する方は一旦放った攻撃を上手に受けられてしまうと次には相手の反撃を覚悟しなくてはいけない。つまり反撃を想定するからうかつな攻撃ができないのだ。空手が上手になる過程で、急に組手が消極的になる時期がある。

    長年空手を教えていると、これが殆どの人に共通の現象だということがわかる。どちらかというと強い人程この傾向がある。それは、ある程度実力が付くと相手の真の実力を感ずることができるようになるためである。実力ある相手の破壊力のある突きや蹴りを現実感をもって想像することができるようになるためだ。睨み合っているだけでは勝負にならないので、意を決して攻撃を試みる。すると想像通りのいや想像以上のカウンターをもらい自分のうかつな攻撃を反省することになる。こういった反省が度重なると大抵は反動を招く。つまり井の中のかわずが大海を知ることで萎縮してしまうという構図になるのだ。しかしここでくじけず地道な稽古を続けることで成功と失敗を積み重ねて強くなり、やがて客観的な自分の実力を把握できるようになる。強い相手を正当に評価しつつも、自分自身の強さも正当に(実際以上でもなく以下でもない)認識し、自分の方がより強い場合はより余裕を持って対処し、逆に自分の方が弱くても、勝負に絶対はないわけだから、例え勝利への道が狭くてもあくまでそれを追及していくという敢闘精神溢れる戦いができるようになる。本当の空手の稽古はこの時期からが本番になる。自分の真の姿を強がりでもなく卑屈でもなく自然体として認識することが真の稽古の出発点である。このレベルになると課題を持って組手ができるようになる。相手のレベルに応じて相手のためにも自分のためにもなる組手ができるようになる。例えば、まだ十分なスピードを身につけていない相手の場合は、自分の不得意な構えや不得意の突き、蹴りを主体にした組手を行う、といったことで強い相手のときにはできない稽古を行うことができる。

    さて、今回のテーマである専守防衛について。専守防衛とは攻撃せずに守りに徹っすることである。自分の真の姿がおぼろげながら分かったレベル(普通は黒帯を初めて取得した頃)であれば、自分より低いレベルの相手に対してある程度専守防衛に徹した組手を行うことができる。専守防衛には2つのパターンがある。

    1つは、相手にこちらが専守防衛であることを告げた場合。もう1つは相手にはこちらが専守防衛であるということを告げない場合である。どちらが大変な組手になるかはやってみるまでもなく分かる。専守防衛を告げた場合だ。しかし、実感として分かってもらいたいのでぜひ実際やってみることを薦める。相手は、自分が攻撃される心配がないということになると、攻撃のタイミングは全て自分の都合で行うことができる。また最初の一撃を受けられてもカウンターの心配がないので安心して2の矢3の矢という具合に連続攻撃をしかけることができる。お互い遠慮のないガチンコの組手であれば余程の差がない限りこの組手は成立しない。一方専守防衛を事前に告げないで、つまり自分だけの方針として専守防衛を行った場合は展開は全然違ったものになる。現実に攻撃がなければ相手はダメージが発生しないのでやはり防衛側は苦しい展開になるが、相手にとって攻撃を仕掛けられないのは何かの作戦や計略かもしれないわけで、特にある程度の上級者であればあるほどうかつには飛び込めないという心情になる。
    このように、この2つのパターンは結果としてはかなり異なった様相を呈することになるのである。専守防衛は状況としてはまるで異なる2つのパターンがあることが分かる。

    告知した専守防衛。告知しない専守防衛。

    そして告知した専守防衛を現実問題と成立させるには圧倒的な力の差が必要であることも分かる。一方告知しない場合は、それでもかなりのハンディではあるが工夫をすることで成立の可能性があることも。

    武道の本来の目的は理不尽な暴力に対する防衛である。そして防衛の理想は専守防衛である。しかし、専守防衛というのは事前に告知した場合は殆ど実行不可能である。武道とはそれが実行可能であるからこそ武道であるのであって、実行不可能であればそれは武道とは言わない。武道とは現実の能力を有していなければならず、その効力、実行の可能性を否定してはいけない。もっと言えば、その実行の可能性の否定を告知すべきではない。刀は鞘から抜かれる可能性を否定しないから刀なのであって、鞘から抜かれることを全て否定したらもはや刀ではない。抜かれる可能性は担保しつつ結果として抜かないのが理想なのである。しかしその理想を現実のものとするには重要な前提がある事を知る必要がある。専守防衛は武道の究極の理想である。先手必勝は弱者でも実行可能な勝利方程式であるけれど、専守防衛は究極の強者しか実行できないからだ。

  4. パチョレック石川梨華 Says:

    今回の反日に共通するのは、中韓共に「侮日」からくる反日妄動であるということです。彼らの根底には常に日本を見下す下地(中華思想、小日本、チョッパリ)があり、いくら中華を誇って見ても現実世界では、どうしても日本に勝てない苛立ちや、自分たちの明らかに日本より劣った生活環境が彼らのプライドを傷つけ、それが反日となって行動面に現れるのです。
    はっきり言って、この侮日という意識を変えない限り、中韓の反日は絶対になくなることは無いと言ってよいでしょう。過去の歴史は侮日の具現化のための口実でしかありません。

    (ドロンパさんのブログより)

  5. パチョレック石川梨華 Says:

    某匿名掲示板より(連投スマソ)

    27 名前: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 投稿日: 2005/04/22(金) 23:30:58 ID:xaMJFbIr
    中国には、無実のA級戦犯で死刑になった、
    東条英機のひざまづく銅像があって、

    その像を中国人の子どもがたたいたり、小便をひっかけたり、 汚物まみれにしたりしている。

    また、戦時中には、親日本派でそのときの中国のトップでもあった 汪兆銘がいる。中国は汪兆銘を売国奴としてさげすんでいる。汪兆銘が売国奴なら、日本と国交を結んだ中国人全員は売国奴だろが。

    中国人はこの汪兆銘夫妻のひざまづく銅像を立てて、 つばをかけ、小便をかけ、叩いて、汚物まみれにして、 永遠にそれを続けようとしている。

    日本が謝罪したということは、日本がひざまづいて、 中国人に小便をかけられ、叩かれ、汚物まみれに なりつづけることを、要求しているんだよ。

    それがわからんのか!

    中国人が思うときに、あやまれ、土下座しろ、賠償しろ、 その要求を未来永遠にいかなるときも、そむくなということなんだよ!

  6. s.t. Says:

    井沢元彦「逆説の日本史」には、明時代の、失政による内乱的性格のものを外寇的なもの=十六世紀倭寇(実際は八割が明国人)の仕業にすりかえようとした、これ即ち中華思想、というニュアンスのことが書かれています。
    現在の中国国民の不満の矛先もまた、都合のいいように日本に向けられてしまうのでしょうか。

  7. 宮本 Says:

    >>津短さん
    僕の支那暴動に対するスタンスはこれの一個前の記事を見ていただくとして、南京大虐殺に関しては九十九式:[jiji] 南京大虐殺まんがのまとめなんかを見ていただくと良いかもしれませんよ。

    >>くろねこさん
    「みんなで参拝する会」なんかを作らないとまともに参拝できないのも問題ではある気がしますが。小学生かよって言う。
    首相の“謝罪”についてですが……
    村山談話引用 首相異例の言及
    到底評価できる内容とは思えません。村山談話を引用しちゃうあたりのセンスがどうにもなりません。

  8. 宮本 Says:

    >>s.t.さん
    なるほど、首肯できる説明ですね。中華主義はある種の排外団結主義と言い換えることができそうです。
    「続きは明日」と書いたものの、あさってになってしまいそうなので軽く触れておきますと、僕は反日暴動の根源を
    ・反日教育
    ・民族主義的排他行動
     →義和団コンプレックス
    ・生活の鬱憤
     →政権への不満、社会的不満(貧富の格差)
    の辺りだろうな、と思っています。

  9. 匿名 Says:

    例え犯罪者でも死者には鞭を打たない、これが日本の文化だと思うんですが、中韓には理解できないでしょうね。
    いや理解する気も能力もないんでしょうけど。

    日本は文化違って理解できなくてもそれを蔑んだりしないですよね。むしろ、どちらかというと取り入れたりしていますし。

    今の時代、異文化を理解しないと事が進まないとは思うんですが、反日であれば何しても何言ってもいいと言うような民衆がいる国じゃ何を言ってもしょうがないんでしょう。

  10. 宮本 Says:

    文化の多様性を認める態度、というのが21世紀意向の国際社会において求められるものだと思います。
    そういう点からいうと、日本人ほどそれをナチュラルに身に着けている国民もいませんね。まぁ行き過ぎると、相手の文化を受け入れるだけの○○かぶれ状態になってしまうわけですが。(今の英語教育とかまさにこれですね。)

  11. 宮本 Says:

    なっげ! と一瞬ビビったらコピペか。良かった良かった。なるほど、現空研でしたか。僕も興味を持ってはいました。この『専守防衛』というテキスト、軍事力の問題として考えることもできますし、中国との外交関係における姿勢という面で考えてみても面白いですね。
    支那大陸の文化というのは、革命で王朝が変わるたびに、前王朝の一族郎党から文物まで全て焼き払って断絶させる性格のものですからねー。その辺が平和主義の日本人には理解しづらいところです。

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