記憶の固執

2003年1月18日 土曜日

阪神大震災から8年が経った。
神戸の町並みは復興しただろうか。

あの日から毎年震災手記を出版し続けてきた人がいる。
彼は最初に、毎年1冊、計10冊の出版を決意したそうだ。
しかしあれから8年。震災は過去のものとなり、人々の関心も薄れ、現在9冊目にはまだ3通の応募しかないらしい。

>活動の期間を10年間と決めたのは、「被災地の心の移ろいも記録したかった」から。
とあるが、どうもこの場合、活動を続けていくうちに記録する事よりも「10年間続ける」事そのものが目的化してしまっているようにも感じられる。
確かに震災の記憶を教訓として形に残し、伝えていくことには意義があるだろう。しかし、被災者の手記が集まらなくなったというのは、裏を返せばそれだけ人々が災害の痛手から回復し、精神的外傷を克服しつつある事の証左なのではないだろうか。神戸を離れシンガポールで活動を続ける彼の、計画を完遂させる事自体に対するある種エゴイスティックな欲求が、その動機の一部になってはいまいか、と考えるのは邪推だろうか。

「風化させてはいけない」と彼は言う。しかし僕にはそもそも風化するというのがそんなにいけない事だとは思えない。人間は忘却によって過去を克服し、未来を建設していけるのではなかったか。
「戦争の記憶」もそうだが、「悲惨だー悲惨だー」と唱え続けていればそれが回避できるというわけでもないのである。

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